明倫舎による布教の拡大と統制
『会友大旨』(安永二年、1773年)・『明倫舎規則』(天明四年、1784年)より
美馬郡半田村(現同郡つるぎ町)、大久保家文書}
『会友大旨』(安永二年、1773年)・『明倫舎規則』(天明四年、1784年)より
美馬郡半田村(現同郡つるぎ町)、大久保家文書}
梅岩の心学は門弟たちによって尊崇され継承されていくが、その門流を総称して石門心学と呼んでいる。梅岩の没後、その発祥地・京都では、修正舎(安永二年、一七七三)・時習舎(安永八年)・明倫舎(天明二年、一七八二)等の心学講舎が創設され、これ以降、京都・大坂・江戸の三都のみならず、全国各地に興設されていった。こうした心学講舎は、入門した門弟(道友・社中)相互の心学修行の場でもあり、一般成人や児童の初心者に対する道話や講釈の聴講の場でもあった。中でも明倫舎は、石門心学普及の総本山として君臨し、明倫舎一世舎主・手島堵庵(享保三年、一七一八〜天明六年、一七八六)は、石門心学が全国的に教線を拡大していく上で重要な役割を果たしている。
堵庵は、京都の商家に生まれたが、梅岩について心学を学び、梅岩没後道友に請われて石門心学の普及と統制に腐心し、生涯にわたって尽力した。堵庵は梅岩の説く性を、「本心」と呼び、しかもそれを・「私(思)案なし」と言い換えて分かりやすく説き、心学を自己批判の精神修養の教学としたので、町人をはじめ武士や農民など社会各層に受け入れられた。しかしながら彼は、聴衆や入門者が増加するのに伴い、梅岩の教えから逸脱することのないよう統制する必要性を痛感した。
安永二年(1773)癸巳十二月 オオク01216
『会友大旨』より抽出 (前略) 會輔 曽子曰以文會友以友輔仁 古人猶かくのごとし况我が 輩須臾も會友の助に よらずバいかで旧染の汚を さるべきつつしんで怠る べからず 文書 四書 近思録 小學 都鄙問答 齊家論 | 會友 平常書を以て互に討論 し慎獨を専とし事理 をきハむべし 學者常に先哲の道話を 聞ざるハ飲食の養を絶が ごとし心志飢渇して意 誠ならず 思ふに干魚も酒にひたせば 全醢となる 酒瓶に此身をつけてひたさばや しゝひしほも骨ハるとも (中略) | 輔仁 性理を正し孝悌を 勧むべし 俊秀にあらざれバ獨学ハ なしがたし常に良友の 親交を離るるハ琢磨の功を 捨るに似たり四体放蕩 にして身修らず おもふに黒米も舂を加れバ 終にハしらけとなる 水車ミづからうすのみぢからハ するともしらで米やしらげん (中略) |
まず、心学講舎を設営する場合には、代表者が明倫舎に届けて許可をもらい、『会友大旨』・
『明倫舎規則』などを拝領して、明倫舎の統制下に置いた。大久保家文書の『会友大旨』末尾には、「此書於明倫舎也根心舎社中熊三郎一信為是拝領者也天保七申正月外明倫舎之規則全一冊」
と記されており、大久保熊三郎が明倫舎から上記二冊を拝領している事が分かる。
各心学講舎には、入門者すべてが相互に切磋琢磨して心学修行するための会輔を設け、会友(司)・輔仁(司)・都講などの役員を置いて、その運営に当たらせた。また、講釈に使用する書籍を指定したり、「会輔中可守之大事」として、幕府・諸藩の御法度や御高札には抵触しないことを第一に留意させている(『会友大旨』)。
入門者に対しては、梅岩の教えを忠実に守り、少しでも違背したならば破門される事を明記した誓約書・「断書」を書かせており、年に二度づつ読むことを要求したり、布教と教化の第一線に立つ心学者には、前掲・京都の三舎による「三舎印鑑」を賦与し、諸地方に出かけて初心者を善導するための道話を許した。さらに地方へ道話に出かける場合には、明倫舎に届け出て記録をし、添え状と琢磨札を持参しなければならないこと、講舎外での講釈・座談は前記京都の三舎や都講への届出、許可証などの携帯が義務づけられている。なお、謝礼などは決して受け取ってはならない、としている(『明倫舎規則』)。
増加する初心者や入門者に対して堵庵は、幅広い心学修行の教材を用意している。男子児童や女子児童には『前訓』、『心学いろは歌』、『新実語教』を著述したり、内容を細分化するとともに明倫舎の印を押し(施印)、綴じさせて覚えやすくしてもいる。また、女性に対しても教化の手を差し伸べている。堵庵のあと、手島和庵(明倫舎二世、寛政三年没)・上河淇水(明倫舎三世、文化一四年没)の三代にわたって、石門心学は全国的に普及・統制されていく。徳島藩に石門心学が伝播するのは、三世・上河淇水の時である。
--------------------------------------------------------------------------------------©2006.10 名倉佳之