●し
■ 柴秋邨(六郎)【しばしゅうそん(ろくろう)】 ■
天保元年(1830)~明治4年3月18日(1871)
天保元年(1830)~明治4年3月18日(1871)
徳島藩邸文学教授。
《生》徳島市紀伊国町(元町)
商業を営む清左衛門の子。幼時に父を失い、8歳の時、菓子店の丁稚となった。読書好きで医師河野弘に見い出され門弟となったが医学に飽きたらず、新居水竹に入門し儒学を学んだ。
江戸に出て大沼枕山、羽倉簡堂に師事。のち大阪の広瀬旭窓に入門、その高弟となった。その後山陽・九州に遊び、大阪に帰り、堀江で開塾したが、母の老衰により帰郷、開塾。文久元年藩の儒官。明治2年7月一橋徳島藩邸の文学教授。同年11月帰国。
庚午事変に際し、檄文を作成。文学教授勤め居り候身分として、今般脱帰輩の激論に同意せしめ、謂われ無き檄文等したため候始末、職掌柄不届きとして禁錮3年。翌年病没。
《生》徳島市紀伊国町(元町)
商業を営む清左衛門の子。幼時に父を失い、8歳の時、菓子店の丁稚となった。読書好きで医師河野弘に見い出され門弟となったが医学に飽きたらず、新居水竹に入門し儒学を学んだ。
江戸に出て大沼枕山、羽倉簡堂に師事。のち大阪の広瀬旭窓に入門、その高弟となった。その後山陽・九州に遊び、大阪に帰り、堀江で開塾したが、母の老衰により帰郷、開塾。文久元年藩の儒官。明治2年7月一橋徳島藩邸の文学教授。同年11月帰国。
庚午事変に際し、檄文を作成。文学教授勤め居り候身分として、今般脱帰輩の激論に同意せしめ、謂われ無き檄文等したため候始末、職掌柄不届きとして禁錮3年。翌年病没。
■ 志摩利右衛門(万像)【しまりえもん(まんぞう)】 ■
文化6年(1809)~明治17年1月14日(1884)
文化6年(1809)~明治17年1月14日(1884)
藍商。
《号》万像・堯年・堯永・豊園《生》名西郡東覚円村(名西郡石井町)
文政2年家督相続。信州松本・羽州米沢・北越・奥羽まで販売網を拡張。 文政11年京都三本木に支店を、文政12年には京都四条通御旅町に煙草店を開いた。
京都三本木の支店の隣りに頼山陽の水西荘があったと言われる。頼山陽・三樹三郎父子と親交があり、勤王の志士を援助し、集会の便を供した。文久3年2月京都等持院の足利尊氏らの木像梟首事件で逃走中の小室信夫と中島錫胤を徳島佐古の大安寺近くの別邸にかくまった。
徳島藩役人としては、文政2年東覚円村組頭庄屋。天保12年藩主斉昌に藩債整理を建議し、調達勘定役を命ぜられ、以後塩方勘定役、江戸御手捌塩改御用、塩方御用利役・寝床制道人(藍方)・勧業下調役、塩方取調役、彦根積入塩御用などを勤め、文久2年土佐流木建議を理由に徳島佐古、大安寺別荘に蟄居、降格。文久3年国産調役に復帰、慶応3年御国産方、明治3年商法御用掛頭取。
《号》万像・堯年・堯永・豊園《生》名西郡東覚円村(名西郡石井町)
文政2年家督相続。信州松本・羽州米沢・北越・奥羽まで販売網を拡張。 文政11年京都三本木に支店を、文政12年には京都四条通御旅町に煙草店を開いた。
京都三本木の支店の隣りに頼山陽の水西荘があったと言われる。頼山陽・三樹三郎父子と親交があり、勤王の志士を援助し、集会の便を供した。文久3年2月京都等持院の足利尊氏らの木像梟首事件で逃走中の小室信夫と中島錫胤を徳島佐古の大安寺近くの別邸にかくまった。
徳島藩役人としては、文政2年東覚円村組頭庄屋。天保12年藩主斉昌に藩債整理を建議し、調達勘定役を命ぜられ、以後塩方勘定役、江戸御手捌塩改御用、塩方御用利役・寝床制道人(藍方)・勧業下調役、塩方取調役、彦根積入塩御用などを勤め、文久2年土佐流木建議を理由に徳島佐古、大安寺別荘に蟄居、降格。文久3年国産調役に復帰、慶応3年御国産方、明治3年商法御用掛頭取。
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