文書館の逸品

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『北の脇海水浴場』  「写真で見る“ちょっと昔”の阿波の名所」展  ~わたしの一枚~ (1) 
  小学校にプールのなかった時代、夏休み前の数日間は北の脇で「臨海学校」が開かれた。学校から海水浴場まで歩き、松林の中で着替え、「命札」を砂浜に並べて海に入った。泳ぎよりも波打ち際での追いかけっこや砂遊びに興じた。 最後には定番のアメ湯。 塩っぱい唇と冷えた身体への甘く熱いお愉しみが用意されていた。 泳ぐことのできない春 ・ 秋の季節にも遠足に来て、松林や砂浜で「陣とり」をしたりお弁当を広げたり、私たちにとって北の脇は「第二の校庭」であった。昭和35年チリ津波に襲われた後、防潮堤が造られ「白砂青松」の景観は変わったが、いつまでも子どもたちの歓声が聞こえる浜であって欲しい。
(計盛 眞一朗)

北の脇海水浴場

徳島県観光課 提供



『丸新デパート』  「写真で見る“ちょっと昔”の阿波の名所」展  ~わたしの一枚~ (2) 
  子どものころの私にとって、そこはまさに夢の国でした。 店内はキラキラと輝いており、 デパート特有の香りがたちこめていました。 親のショッピングに(不承不承)付き合った後は、 レストランのお子様ランチと屋上の遊具類が私を待ち受けていました。子供心に垂涎の的だった、噴水式のオレンジジュースの自動販売機もそこにあった記憶があります。  昭和9年の営業開始以来、徳島大空襲や戦後の混乱などをくぐり抜けてきた丸新デパートは平成7年に閉店しました。 東新町商店街入り口にある跡地に立つたびに、幼少期の大切な思い出のひとつが消え失せてしまったことを感じずにはいられません。
(徳野 隆)

丸新デパート

徳島県立博物館 提供



『眉山ロープウェイ』  「写真で見る“ちょっと昔”の阿波の名所」展  ~わたしの一枚~ (3) 
  私が初めて来徳したのは、平成元年7月のことです。街の中を歩き回ると、印象深かった所はなんといっても、川(吉野川)と山(眉山)の姿でした。 早速眉山のロープウェイに乗り込み 、眉山の上に登ると、 徳島の街を一望できる景色にまず満足した記憶があります。 現在のロープウェイは、平成11年7月31日、麓にある阿波おどり会館の建設と共に一新されました。  写真は古いロープウェイの姿ですが、記憶の形と若干違うと感じていました。調べて見ると、眉山ロープウェイは、昭和32年12月1日開業、写真のロープウェイは開業当時のものと思われます。その後昭和51年に改造、昭和57年にはゴンドラ老朽化のため買い換えられていたことがわかりました。記憶の中にあったゴンドラは新装されたものだったのです。
(金原 祐樹)

眉山ロープウェイ

徳島県観光課 提供



『集団就職で小松島港を出発する中学生』  「写真で見る“ちょっと昔”の阿波の名所」展  ~わたしの一枚~ (4) 
  昭和30年代の半ばごろ、 高校への進学率は徳島ではまだ6割ぐらいで、 卒業するとすぐに就職する生徒が多かった。経済成長期に突入したこの時代、貴重な労働力として就職する中学生たちは引く手あまたで「金の卵」といわれた。 中学を卒業したばかりでまだ若い少年少女たちは、徳島から小松島港から集団でテープと歓呼の声に送られて故郷を出発した。戦後日本の驚異的な高度経済成長を支えたのはこの若い戦士たちであったことを忘れないでおきたいと思う。
(立石 恵嗣)

集団就職で小松島港を出発する中学生

郷土出版社 提供



『牛耕』  「写真で見る“ちょっと昔”の阿波の名所」展  ~わたしの一枚~ (5) 
  私の少年時代は戦後の復興期、衣食にも貧しい昭和30年前後であった。 普段の遊び場は、 周囲の野山や田んぼの周りで、 おおよそ食べられるものは何でも口にした。 そんな生活の中で、 当時はありふれた牛耕風景もいつの間にか姿を消し、私の住む町の景色も一変してしまっている。 この私がまさかの還暦を迎え、 歳の所為か、貧しくて不便だったあの頃への思いが深まる今日この頃である。
(天野 尊温)

牛耕

徳島県観光課 提供



『天神祭の舟渡御』  「写真で見る“ちょっと昔”の阿波の名所」展  ~わたしの一枚~ (6) 
  この頃、 小中学校の一学期の終業式は7月25日であった。この日は、眉山下の天神社夏祭りの本宮でもある。大正時代はずいぶん盛んであったようだが、戦後は昭和29年に舟渡御と花火が復活したという。 早めの夕食後、 歩いて20分ほどのかちどき橋へ家族とむかう。もう、橋の上や新町川の両岸はいっぱいの人出。やがて、かがり火を先頭に舟渡御の神輿、さらに高張り提燈・鳴り物などを乗せた船、見物の屋形船が華やかに船列を組んでやって来る。神輿船について中洲を移動すると、「三ツ頭」(新町川と福島川の合流点)では西船場へ帰る船団が大きくUターンする。圧巻であった。このシーンと打上げ花火・仕掛け花火は毎年の楽しみであった。
 戦後に復活した舟渡御・花火も、現在は途絶えて久しい。しかし、わたしたちの夏休みは、舟渡御と花火を合図に始まったように思う。
(板東 紀彦)

天神祭の舟渡御

徳島県観光課 提供



『流下式塩田と小鳴門橋』  「写真で見る“ちょっと昔”の阿波の名所」展  ~わたしの一枚~ (7) 
  昭和50年代生まれの私は、鳴門に塩田があったことを知識としては知っていても、実際にイメージするのは難しい。この写真は、妙見山の上から鳴門市撫養町の北浜、弁財天、小桑島の辺りを写したものであろう。現在この辺りは住宅が建ち並んで、塩田の面影など全く無くなってしまっている。 写真では、 塩田の広さとともに、流下式塩田で使われていた竹で組んだ枝条架の大きさや形などを知ることができる。 今では見ることのできなくなった過去の風景を写真が教えてくれている。
(森 千枝)

流下式塩田と小鳴門橋

徳島県観光課 提供



『雨の新町橋通り』  「写真で見る“ちょっと昔”の阿波の名所」展  ~わたしの一枚~ (8) 
  昭和40年前後、私は新町橋近くの会社に勤めていました。帰りのバスを待ちながら、ぼんやりと、ただながめていた風景。毎日忙しく、帰りは午後8時、9時になることも多かったけれど、会社の食堂でのクリスマスパーティー、初めての社交ダンスなど青春の思い出に重なった懐かしい写真です。こちら側の丸新は無くなり、私の勤めたビルは時計店になってしまいました。
(谷 恵子)

雨の新町橋通り

徳島県観光課 提供



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